尚古集成館-今なお残る近代国家への息吹-

集成館事業とは

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集成館事業とは |2015年7月 世界文化遺産 登録|

■鹿児島の近代化遺産
■明治日本の産業革命遺産

 植民地化政策を採る西欧列強は、アフリカ・アラビア・インド・東南アジアを経て、南から中国・日本へと迫ってきた。このため日本最南端を統治する薩摩藩はその矢面に立たされた。文政7(1824)年の宝島事件や天保8(1837)年のモリソン号事件、1840年代イギリス・フランス艦隊の琉球来航などは、藩内で起こった日本と西欧諸国との接触の最たるものである。
薩摩藩では1840年代に、西欧の科学技術を導入して海防体制の強化が図られていた。嘉永4(1851)年に藩主となった島津斉彬は、海防強化をさらにすすめるため、磯に反射炉やガラス工場などを次々に建て、一連の工場群を「集成館」と名付けた。斉彬はこの地を中心に、造船・造砲・ガラス製造・紡績・写真・電信など多岐にわたる事業を展開した。幕府・諸藩が軍備増強ばかりを主としていたのに対し、斉彬は西欧諸国と対等な関係を築くため産業の育成・社会基盤の整備にも重点を置いた。いずれの事業も蘭学書のみが頼りであり、斉彬は藩内の蘭学者だけでなく、幕府・諸藩の蘭学者を招聘し、研究に当たらせた。さらに、不足している西洋技術は日本在来の技術を改良する形で補い、独自の設備を構築した。
  斉彬の死後、藩主に就任した忠義と忠義の実父久光は、斉彬の遺志を継いで富国強兵を推し進めた。使節・留学生をイギリスに派遣するなどして、最新の技術・機械を入手、技術者を薩摩藩に招いた。慶応元 (1865) 年竣工した集成館機械工場や慶応3(1867)年に竣工した日本の初近代的な紡績工場・鹿児島紡績所など、薩摩藩は日本最先端の工業施設・技術力を所持するようになった。幕末、薩摩藩はこれらの技術力を背景に倒幕運動を牽引することとなる。そして明治時代になると、集成館事業で活躍した人物が日本国内の工場に技師として招かれて指導した。集成館は近代産業の礎を築き、全国に富国強兵を広げた原点なのである。