尚古集成館-今なお残る近代国家への息吹-

集成館事業とは(世界遺産登録へ)

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新波止砲台跡

(しんはとほうだいあと)


新波止砲台
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解説

 海防のために設けられた砲台施設。薩摩藩はモリソン号事件の後、1840年代に台場を築く。斉興の頃に築造されたのは外洋の防備を意識したものであった。斉彬は鹿児島湾内にも台場を建設、嘉永6(1853)年の大門口・祇園之洲を、翌年には新波戸・弁天に台場を築造する(いずれも鹿児島城下)。城下周辺を除いた地域の台場はペリー来航までに完成、城下周辺の台場は薩英戦争前後に整備が完了されている。これらに集成館で造った大砲などを並べ、海防強化を図った。薩英戦争の際には、斉彬が設置した台場を用いてイギリス艦隊を鹿児島湾内で迎え撃ち、艦隊を撤退させるものの、台場も甚大な被害を被っている。
 薩英戦争後には城下北部に東福城(東福寺城跡)・風月亭、桜島の燃崎・瀬戸に砲台を増設している。いずれも鹿児島湾内であり、薩英戦争の経験から城下付近の強化を行ったものである。明治5(1872)年には城下に一丁台場が築かれた。
 廃藩置県後には軍が管理するものとなるも、のちに多くの管理が県に移され、防波堤として使用されたり、民間に借用されたりしていった。祇園之洲台場は西南戦争の官軍戦死者の墓地となる。新波戸台場と一丁台場は今もその姿を留めている。